佐藤渓・詩をかく放浪の画家

純一無雑。
わたしのいちばん好きな画家。

昭和25、6年頃のことになるらしい。京橋図書館の近くの公園の中に、鍋だのやかんだのをまわりにぶら下げた車をとめて、その中に住み、絵を描いて、図書館の番人の老夫婦にあずけておくという、佐藤溪という不思議な画家がいた。

もともとわたしは、絵画を買うのは趣味ではなかった。はじめてみたのは、佐藤溪のすべてを譲り受けた美術館。居並ぶ絵から発するなにやら妖しい波長が体内に流れ込み、まわりとのあまりの違和感にうろたえて、顔の中心から放射状に後頭部へ血がひくような感覚を覚えた。

ほんとうにこれらはひとりの人が描いたとは思えない、気まぐれとしかいえないほどにタッチも違えば表現も違う。戸惑わせながら、魅せつけてやまないところでもあるのだろう。

こうもり傘を修理しながら日本中を放浪して、たくさんのスケッチを残されたが、せっかくの油絵もベニヤ板に描かれ、いつまで保存できるか館長さんは心配されている。

戦後復員した出雲では、知られた詩人であったが、その後、詩よりも絵が主になった。
極貧の中に創作活動している佐藤溪の身のまわりは、手づくりで、自分の服のボタンも木でつくって彫刻していたその部屋は、楽しさがいっぱいの楽園のようだったと、実の弟さんは話してある。

自分の絵は売れなくても50年たったら必ず世に出ると言っていたそうだ。もっと世間に売れるような絵を描いたらとすすめられたら、絵は絵なんだと相手にしなかった。

みずからを芸術教の教祖とよび、世の中は高度成長の波に乗りながらも、まったく正反対の道をひとり歩いていっていたが、心は豊かで友達をとても大事にし、せっかく少しくらい財布をうるおしたときも、友達から借りに来られたら、相手に惜しげもなく全部やってしまう佐藤溪は、人間離れをしていたという。

激しい恋をし、心傷つき、相手の人をほんとうに傷つけてしまった。代表作「富士恵像」をみていると、おもいのふかさを感じる。

1960年(昭和35)42歳。旅先の沼津で倒れ、両親のいる湯布院にて永眠。

がいこくの にほんの
みんな とほい ところの みえない ともだち
やさしい こころの ともだち
みんな ともだち ぼくのともだち
いつまでも ともだち
しゅっせしてぼくをばかにしている ともだち
それでも ともだちは ぼくのともだち
うれしい ともだち

(作詩/佐藤溪)

「佐藤渓詩画集 どこにいるのか ともだち」1993年5月1日初版発行 発行者 高橋鴿子 発行所 由布院美術館 より
「佐藤渓詩画集 どこにいるのか ともだち」より

いちまいお売りにはなりませんか
美術館の館長さんにいってみた。
わらってあった。

魂だけを胸にやきつけるように
とどめておいて
疲れると詩画集をめくり
佐藤溪さんに会いにいく。

いまどきは
手もとに届いた梱包をひもとくと
これが今の、この方なのだと
わたしのなかで色褪せていく、
そんなこともあるけれど。
佐藤溪は
永遠にかわらない。

*佐藤渓の作品と生き方に出会った由布院美術館は、2012年春、惜しまれながら閉館されました。

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