花守り人~桧原桜物語~

桜の季節、
いつも思い出すことがあります。

それは、
福岡の南に語り継がれる桜の物語です。

いま暮らしているまちの桜の写真とともに
ここに残します。

1984年3月。

ふたつの池のはさまれた狭い道の脇に
9本の桜並木がありました。

でも、
車の離合も困難な狭い道の拡張工事のため、
桜は切られることになります。

開花間近な桜、
いっぱいにふくらんだ蕾をつけたまま、
その一本が切られました。

翌朝、残された桜の幹に、
命乞いの色紙がかけられます。

 花守り 進藤市長殿
花あわれ せめては あと二旬 
ついの開花を 許し給え

このうたを偶然、目にした某企業の社長が、
おなじおもいを部下に語り、
部下はすぐに桜のもとに走り、
花のあわれの光景を前にしたあと、
知人の新聞社社会部の記者に現場を見てほしいと連絡。

「花あわれ ついの開花をゆるし給え」
という見出しで社会面のトップ記事として掲載されます。


それから、ぞくぞくと桜の樹に、
花を惜しむうたや句がかけられ、
ある日、そのなかに
こんな一首がかけられていました。

 桜花(はな)惜しむ 
大和心の うるわしや 
とわに匂わん 花の心は
(香瑞麻)

当時の福岡市長、
進藤一馬市長の雅号、返歌でした。


市長は工事担当者に
「桜の散り終わるまで待てないものか」
と要請をしたといいます。

すでに実施されている公共事業、年度末、
担当者の苦悩はいかばかりだったことか。

しかし、
花を守ってほしいという多くの声を力に
計画は変更、
歩道と小公園までつくられ、
桜はいかされました。

 
ひとりのよみ人しらずのうたから、
つながっていった、おもい。

ついの開花を許された桜
「桧原桜(ひばるさくら)」。

歌碑がたてられ、地名にもなり、
暮らす人、訪れる人を
桜は祝福しているかのように
今年、35回目の満開をむかえています。

 

 
工事反対、抗議などの声ではなく

ただ、せめてあと二旬、
二十日間ほど、待ってください。
さいごの桜をみせてください。

静かな陳情、でも、深く、
きっと誰もが心で願っていた祈り。
おもいが響きます。

みんなで守った桜は、今も愛され、
こどもたちが短歌を掲げています。

守っていくということは
過去から受け継ぐというより
未来からあずかっているものだと感じます。

 

 
私は、この桧原桜のそばで
6歳から成人すぎるまで暮らしていました。
桧原桜の道は学校から帰る道でもありました。
うたを掲げたよみ人しらずの方は、
私にとって、「近所のおじちゃん」でした。

やむなく私たちは引っ越しをしましたが、
整備計画は、桧原桜の地に
両親が家を建てたときから聞いていました。

レンゲが一面の田んぼ、空き地、あそんだあの頃。
私たちが暮らした家の庭にはいま、
大きな道路が走っています。

 

そうして、時を越え
歩けばこんなにも、桜のむこうにまた桜
爛漫と咲き誇る桜のまちに、
だいじな家族と暮らしています。


桜の写真
福岡県糟屋郡宇美町



自我作古
われより いにしえを なす   

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